正直なところ、自分は作曲をしていると思った事がない。どちらかというと、演奏したい曲を自分で図画工作しているという感じだ。
思い返せば私は酷いピアノの生徒だった。物心がついた頃からピアノの練習も譜読みも苦手であった。巨大な手の持ち主の西洋人が書いた音符の組み合わせは、苦痛を伴うくらいいっぱい練習しないと楽譜通りに弾けるようにならないし、自分の好きじゃない響きがする音が入ったパッセージを何百回と弾けるまで繰り返しする事なんかは苦手な味の混ざった食べ物をずっと噛みつづけなければならないようで「この音符をこうした方がいいのにな〜」などと、やってはならない事ばっかりを考えてばかりいた。そして時には名曲を改造したのがバレて、レッスンで先生にビンタされたり蹴っ飛ばされたりした。先生、悪い生徒でごめんなさい。
あの頃、楽譜にどこまでも忠実にひたすら練習しまくって本番で一音も外さずに弾ける高校や大学のピアノ仲間達の才能が羨ましいを超えて不思議でならなかった。
なのにどう言う訳か、練習はあんなに大嫌いな割にピアノをやめようと思ったことはなかった。どうやったら100%美しいと思う音の流れと音程と和声進行で構成された曲を、自分の指に負担をかけずに正確に潔く弾けるかという事を探しているうちにキューバまで行ってしまった。
キューバの音楽の魅力は演奏家達の自給自足度合いが高い事だと思う。料理で言えば、材料調達から下ごしらえに料理・盛り付けまで全部自前でやってしまう自由な大胆さと器用さがある。どんな状態の楽器でも、どんな過酷な環境でも、自分が思った音を瞬時に発する天才達がいっぱいいる。かれらが作り出す音楽は「作曲」と言うよりは、すでに練習して体が覚えている某大な音の配列の記憶を、まるで引き出しのように瞬時に引っ張り出して開け、縦横無尽に次々と組み合わせている、と言う事だと思う。
今思えば、自分の音の引出しとなった最も大きな経験のひとつは、演奏で生計を立てられなかった20ー30才代にピアノのレッスンの同時通訳を死ぬほどやった事にあると思う。特に自分大学時代に教わったミュンヘン芸術大学の師匠のミヒャエル・シェーファーやクラウス・シルデのレッスン同時通訳は、本当に勉強になった。二人とも同じ流派の教授で、楽譜から読み取る曲の解釈や作曲家に対する考察、透明感のある美しい和音の響かせ方など、ピアニストのお医者さんと名付けたくなるほど、生徒一人一人に合わせて見事なレッスンをする職人さんのような巨匠だった。
それにしても、時差なく訳す通訳は気が遠くなるほど大変な仕事だった。毎日ぶっ続けで10時間近くひたすら先生の言わんとする事を自分の感情を一切入れる事なくイタコのようにひたすら黒子として伝える毎日。仕事が終わると体も頭もショートしそうになるのでそのまま気絶するように寝て、朝またレッスンがやってくる。その連続が、知らぬ間に自分の記憶の中に様々な音をインプットし、個人が練習するだけでは決して学ぶ事の出来ない量のクラシックピアノ曲を片っ端から叩き込まれた日々だった。その頃の音の記憶が今になって自分が演奏したい音の種となって、色々芽を出しているような気がする。
1オクターブのなかに存在する音の数と、今日までに生み出されている曲数を考えると、数学的に確率で考えても音の配列としてはもう新しい曲というのは発見できないのではないかと思うほど曲は出尽くしていると思う。そこから抜け出そうと12音音階とか現代音楽とかが盛んになった時期もあったけど、その新発見を求めた新しい音配列の中に人間の心を揺り動かすような音楽を見出すのは難しかったのかもしれない。今、新しい音楽の発見があるとすれば、それは物理的な音の配列ではなく、音の出し方、響かせ方、歌い方などの奏法の分野にあるのではないかと思う。
今日も私はピアノを弾きながら祈るのだった。ああ、神様。どうかこの曲が誰かが既に書いた曲のパクリではありませんように、と。最近も自分が書いた曲を自分でパクっている事に気づき焦ったばかりだったし。