染みた卵と日本の心
日系人のヤマグチさん
キューバのカマグエイでの生活はともかく健康的だった。停電が日常的に起こっていたので夜明けとともに起きて、日が暮れると寝る。食べる物は川魚や野草、あらゆる種類の果物を自分で採集していた。水をくみ、火を起こして料理する暮らしだった。暮らすためのアイデアを出し合いっこして、楽しく豊かだった。
生活するにつれ、記憶力や嗅覚、直感が研ぎ澄まされた。ある時、市民ホールでベートーベンのピアノ協奏曲をオーケストラと演奏した。それまで譜読みと暗譜に1カ月ほどかかっていたが、その際は1週間ほどでできて我ながら驚いた。また空気に漂う匂いをもとに、数時間後の雨や雷、誰かとばったり合う予感など、よく当てるようになった。
けれどあるとき、何が原因か分からないまま猛烈に体調が悪くなった。三日三晩、高熱と吐き気に襲われ、意識がもうろうとした。「このまま日本に帰れずに目が覚めないのではないか」と思うほどだった。
ある日、私が体調を崩したことを知った老人が卵を一つ持って訪れた。その老人の顔は、初めて会うのになぜか懐かしい顔だった。その方の名前は「ヤマグチさん」といった。
ヤマグチさんは、海を渡ってキューバに入植した熊本県出身の日系人だった。その時、キューバに日系人が千人近くも住んでいることを知った。かつてサトウキビなどで大変な富を築き上げた日系人が多くいたそうだ。ヤマグチさんは、第二次世界大戦で敵国民として収監され、その後のキューバ新体制の中では新たな社会の一員として日本語も忘れ暮らしている人の一人だった。
ヤマグチさんは、なかなか手に入らない貴重な卵を大事に布で包んで「これを食べなさい」と手渡してくれた。手と卵の中から日本の心が伝わり染みるような気がして、涙が噴き出してきた。
元気になってからは、毎日のようにヤマグチさんの家に遊びに行くようになった。そこで聞く話は、日本を離れる時に両親や幼い兄弟と生き別れになったこと、無一文で始まったキューバで一つずつ苦難を超えながら生きてきたことだった。日本という同じ国に生まれながら、これほど違った人生を歩む人がいることを知った。
その頃から、ピアノに向き合う姿勢も変化した。ボロボロのピアノの前に座ると、無理してバッハやブラームスを弾くのをやめた。そのピアノの状態に合わせて、きれいだと思う音を探ったり、出そうとするようになっていた。