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中部経済新聞連載「マイウェイ」第7回

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明和高校音楽科のなかまたち

レッスン
ピアノのレッスンは3歳のころに始めた。愛知県立芸術大学(長久手市)の官舎でお隣だったピアニストの八重口敬子先生が教えてくださった。先生は私が幼くのんびりした性格だったにもかかわらず破門せずに辛抱強く指導してくださった。
週一回のレッスンはとても厳しかった。度々厳しい言葉を浴びさられ、涙がたまって楽譜がぼやけて見えた。そのせいで音符が読めずに、ますますミスタッチして一層と怒られた。同じようなミスを繰り返すと、今度は手や楽譜が飛んできた。先生は決まって私の右側に座っていて、オペラ歌手並みに大きく通る先生の声は怒鳴られるたびに私の右耳に突き刺さり、レッスン後には耳が軽い難聴をきたしていた。一方で先生が即興で作曲した曲を書き取る独特の聴音訓練のソルフェージュは難しくもあったが面白かった。即興でつくる曲は、その日のレッスンで弾いた曲のモチーフが元になっていることが多かった。時に美しく、時には変な曲だったのだが、私はこの時間が好きだった。
レッスンを続けても、自分のピアノのレベルは今ひとつ分からない状態のままだった。八重口先生のお弟子さんは皆優秀な芸大生ばかり。その半面、私は怒られてばかりの劣等生。ただ学校では、卒業式のピアノ演奏などを担当し「同級生の中ではピアノが上手な方」という生徒だった。
長久手中学校卒業後、愛知県立明和高等学校(名古屋市)への進学が決まった。長久手を初めて出て、名古屋市の中心街に通う毎日が始まった。
ピアノ科には35人ほどがいたのだが、その誰もがのけ反るほどピアノが上手だった。私の数倍も練習し、数十倍も早く動く指や頭を持っていた。指導教官の西典代先生も競争を知らず浮世離れした私に苦労されたことだろう。「とんでもない場所に来てしまった」と入学直後に軽く足が震えたことを覚えている。
しかし、高校3年間で懸命に努力した。ピアノを弾く楽しさも感じていた。自分が何をしたらいいのか分かるようにもなっていた。同級生はライバルだが、兄弟姉妹のようでもあった。みんなで競争するように猛烈に練習し、音楽や夢について話を交わした。高校生活は刺激的な3年間だった。

  • 2023年03月08日(水)19時30分
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