ピアノが怖い
帰国
キューバ生活は1年ほどで終わりを迎えた。このままでは根無し草か糸の切れた凧のようになってしまうと実感するようになっていた。思い切って日本に帰国することにした。 当時、唯一自分が持っていたものは、ドイツ語とスペイン語を通訳できる能力、そして途絶えることのない音楽への憧れと愛情だった。かといって弾きたい音楽とはなにか、尚わからない状態だった。そして、日本でのコネもアテも就職先も、何もなかった。
帰国して、誰も知り合いがいない東京の下町の外れに住み始めた。ピアノが弾けそうな小さなピンク色の古い一軒家を見つけ、借りた。
とりあえず最低限の生活ができるよう通訳の仕事を求めて、「サイマルインターナショナル」という通訳派遣会社に登録した。時々回ってくる通訳の仕事をしながらの暮らしが始まった。
高校の同級生がグランドピアノの置き場を探しているということを聞いた。そのピアノを家で預かる代わりに弾かせてもらえることになった。これで鍵盤が全部そろっていて、壊れていないグランドピアノを自由に弾ける環境が久しぶりに整った。
ピアノを弾く環境が整った一方で、なぜか気持ちがピアノに向かなかった。それは取り巻く環境の変化が大きく影響していたのだろう。
まず自然を身近に感じる機会が減った。東京は朝も夜も明るく、鳥の声も木々が揺れる音もなかった。さらに自由に生きることが良くないことかのように周囲からの圧力も大きく感じた。また、母親から娘としてあるべき姿という要求も重くのしかかっていた。
窒息しそうな圧力のなか、指に激痛が走った。次第にピアノに近寄れなくなっていった。ピアノがある生活を、キューバであれほど望んでいたのに、ここではそのピアノが巨大な黒い岩か生き物のように感じられるのだ。しまいにはピアノを置いた部屋に入ることすら恐ろしくなった。
状況は悪化する一方だった。指の激痛は手全体に広がり、とても鍵盤を押して演奏できる状態ではなくなった。あんなに好きだったチューチョ・バルデスの音楽やキューバのリズムも、聴くとなぜだか悲しくて涙が止まらなくなった。音楽を聴くことすらやめてしまった。「もうピアノはやめるしかない」と悟った。