アルバイトも続かずお先真っ暗
京都へ
スペインやキューバに引っ越した時も「何の仕事をしたいか」というより「どの場所を舞台に生き生きと暮らしたいか」という基準で住む場所を選ぶようになっていた。
散歩やゴミ捨て、食品スーパーや銀行へ行く何気ない日常で目にする身近な風景をきれいと思えるような「プチ感動」を多く得られる場所を見つけられれば、ご縁でつながった仕事や課題を頑張れると思っていた。帰国して東京で2年暮らしたが、そのような場所ではなかった。
思い立って、テレビコマーシャルよろしく「そうだ京都、行こう」と京都行きを決めた。下鴨神社や糺(ただす)の森、町を流れる鴨川を生活の舞台にしたいと思ったからだ。スペインやキューバと同様、毎度のことながら京都でのつてやあては無かった。
日本では大半のピアノ奏者がピアノ教室や学校で教える職に就き収入基盤を築いていた。ピアノ演奏家のみで生きていくのは難しい。一方で私は、一カ所でじっとすることが何より苦手。毎週同じ部屋で同じ人にレッスンする職業だけは向いていないことが自身で分かっていた。
とはいえ当時は腱鞘(けんしょう)炎で指がいつ動くようになるかも分からない状態だった。ピアノ演奏以外のアルバイトをしながらリハビリをして、ピアノを続ければ、いつかきっと演奏家になれると思うようにした。
選んだ仕事は豆腐屋のアルバイトだった。なぜ豆腐か。それは国が危機的状況だったキューバで生活を通して、人に力づけることができるのは「音楽」と「大豆」と実感していた。それはキューバだけではなく世界で通じるのだろうと信じていたのだ。
苦労の末に京都の某・老舗豆腐屋のアルバイト面接に合格し働き始めた。日本に限らず世界でも知られる豆腐をつくっている豆腐屋だった。
しかし、その工場の職場では、驚くような複雑な人間関係、いじめのような理不尽なことがはびこっていた。長い海外生活で日本的な感覚も失ってしまっていた。とてもアルバイトは務まらないと思い、頭を下げて平謝りしてやめさせてもらったのだった。
3歳から習ってきたピアノもろくに弾けない。アルバイトすら全う出来ない。自分は何て意味のない人生を歩んでいるのか。お先真っ暗とはこの事だった。