ピアノ演奏で生きていく難しさ
仕事
ドイツのミュンヘン国立音楽大学を卒業した後、演奏家になることを夢見てベルリンへ渡った。当時はベルリンの壁が崩れた直後だった。街は希望と混乱のカオスで、独特のエネルギーが渦巻いていた。
壁の跡地では大規模な新都心建設が始まり、世界中からさまざまな分野の人が夢や、時には野望を持って集まり始めていた。
私は演奏家国家資格という卒業証書をいただいていたが、すぐに演奏会の仕事がやってくるわけでもなかった。ベルリンにあった日本語|ドイツ語通訳の派遣会社にお世話になりアルバイトをすることで生計を立てていた。
通訳という仕事は面白かった。アサヒスーパードライをドイツで広めるプロモーション、光ファイバーケーブルを引く下水道の中、事件や検死の現場、宗教者や霊能者との対談。様々なところで通訳の仕事をして、テレビ番組の海外ロケのコーディネートも経験した。見知らぬ分野で活躍する人々の信念や強烈な個性を知った。ピアノだけを弾いていたら決して知ることのなかった世界だった。
その半面、ピアノの活動は行き詰まっていた。自分に回ってくる仕事といえば現代音楽の初演ばかり。当時の現代音楽は、難解な上に演奏が極めて難しい。作曲家たちは、いかにとっぴでまだ誰も思いついていない音楽をつくるかという野心に満ちていたからだろう。時には弦や椅子をなにかで叩いたり、ピアノの回りを歩き回るような曲すら世に出てきた。
お仕事として受けた以上、なんとか聴く人に楽しんでもらえるよう一生懸命に練習するのだが、ピアノを弾いている自分まで気持ちが暗くなってしまう。演奏会が終わったとき、お客さんの拍手には「終わって良かった」という安堵(あんど)の気持ちが感じられた。「私は癒しの対極にあるような音楽を聞いてもらうためにピアノを弾き続けたいのだろうか」と迷うほどだった。
それまで演奏家になる訓練しか受けてこなかった。作曲する技術もジャズのように即興で自由に弾く能力もなかった。いつか作曲などをする力を身につけなければ、ピアノを通じた自由は一生手に入らない。人も自分も幸せにはなれない。そう思うようになり始めていた。